【漆芸家:やのさちこ】時間を塗るという仕事
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雪の降る日に、滋賀県を訪ねました。
曇り空の下、冷えた空気が肌にまとわりつき、吐く息はすぐに白くほどけていきます。
足元には新しい雪が薄く積もり、歩くたび、音の代わりに感触だけがわずかに変わっていきました。
その日訪ねたのは、漆芸家・やのさちこさんの工房です。
ご自宅の二階に設えられた工房は、ご主人とともに自分たちの手で改装したものだといいます。
特別な制作施設というより、暮らしの延長線上に制作の場がそのまま置かれている。
階段を上がるにつれ、訪問者である私たちの歩調も、
この家に流れる時間へと、少しずつ溶け込んでいくようでした。

扉を開けると、灯油ストーブの熱が身体に届きます。
外の冷え込みが強かった分、その温度は輪郭をもって伝わってきました。
ほのかに漂う漆の香りが空気に混じり、
ここが生活と制作とが自然に重なり合う場所であることを、言葉より先に知らせます。
撮影が中盤に差しかかる頃、やのさんはおにぎりと温かいシチューを用意してくださいました。
説明めいた言葉は添えられず、必要なものが、必要なときに、さりげなく置かれる。
その間合いには、漆芸家としての時間とは別に、
日々の暮らしの中で子どもを育ててきた人の感覚がにじんでいました。
こちらも構えを解き、その場に身を委ねることができました。
棚には、完成した吸い物椀や制作途中の器が並んでいます。
繊細な絵柄と精緻な模様が、和紙の上に重ねられ、
艶やかな部分と柔らかな表情が一つの器の中で折り重なっていました。
光を強く跳ね返すのではなく、いったん含み、奥から返すような質感。
その奥行きに、幾度も重ねられてきた工程の気配が感じ取れます。

漆の仕事は、その日のうちに完結するものではありません。
一つの吸い物椀が完成するまでには、制作を始めてから一年ほどの時間を要します。
塗っては乾かし、研ぎ、また塗る。
その工程を繰り返す中で、器は少しずつ、自分の輪郭を確かめるように表情を定めていきます。
作業を見せていただくと、その筆先には迷いがなく、動きは息をのむほど細やかです。
集中の張りつめた時間の中で、漆は途切れることなく塗り重ねられていきます。
今日の一手が、数か月後、一年後の表情を決めていく。
その意識が、作業の密度を内側から支えているようでした。

完成した吸い物椀を手に取ると、まず感じるのは木ならではの軽さです。
けれど、それは軽薄さとはまったく異なります。
手の中で器は自然に馴染み、塗り重ねられてきた時間の層が、確かな重みとして伝わってきました。
表面は指先に吸い付くようで、持つという行為そのものが、器との対話になる。
日々の食卓で使われる中で、さらに関係が深まっていくことを予感させる感触でした。
制作の合間に交わされる言葉も、作品とよく似ていました。
考え、言葉にして、また考える。語られるのは、いつも自分の実感です。
相手の様子を確かめながら、けれど相手に合わせるための言葉ではない。
そのあり方が、この工房の空気をかたちづくっているようでした。

窓の外では、雪が降り続いています。
一片一片はとても軽く、触れればすぐに消えてしまいそうです。
それでも、時間をかけて積もることで、風景は少しずつ書き換えられていく。
その様子は、漆が塗り重ねられていく過程と、いつの間にか重なって見えていました。

工房を後にし、再び冷たい空気の中に身を置くと、
景色の見え方がわずかに変わっていることに気づきます。
急がず、重ね、待つということ。
その感覚が、雪の積もる速さや、白さの濃淡の中に静かに反映されていました。
やのさちこさんの工房で過ごした時間は、持ち帰るものとして形には残りません。
それでも、ふとした瞬間に思い出され、
見ている風景の奥行きを、少しだけ深くしてくれる。
そんな余韻を残してくれました。